師範に問う~戦国ビジネス研究所~【静岡大学名誉教授・小和田哲男氏】
公開日:2020年08月04日
師範に問う~戦国ビジネス研究所~【小和田哲男氏】
「戦国時代の研究者や愛好家から、経営者へのメッセージ」をテーマにスタートした『師範に問う~戦国ビジネス研究所~』。その記念すべき第1回目のゲストは、戦国時代研究の第一人者でいらっしゃる小和田哲男先生です。
筆者が小学生の頃から尊敬してやまない小和田先生にインタビューさせていただくため、先生の本拠地である駿河国に降り立ったのでした。
―― はじめまして。戦国法人カードを運営しております、平下肥後守昌運(ひらした ひごのかみ しょううん)と申します。本日は、お忙しい最中をありがとうございます。
どうも、小和田でございます。こちらこそ、宜しくお願いします。
―― 戦国法人カードでは、経営者さんや個人事業主の方の法人カード選びをお手伝いするサイトでございまして、今回は「戦国大名に学ぶ、経営者へのアドバイス」をお話頂ければと考えております。
わかりました。さっそく、始めていきましょう。
- 【人間関係】部下との上手な付き合い方とは?
- 【ライバル】誰と手を組み、誰と戦うか?
- 【事業承継】能力で選ぶ?順番で選ぶ?
【人間関係】部下の上手な操縦方法とは?
- 大切なことは会議で相談を!
- 部下の諫言には耳を傾けよ!
- トップは自らの器量を大きくせよ!
大切なことは会議で相談する
―― まず、戦国大名が実践していた部下の上手な操縦方法についてです。私のイメージでは「戦国大名=王様、家臣=奴隷」の関係だったと想像しているのですが、実際にはどのようなものだったのでしょうか。
たしかに、歴史ドラマや小説では「貴様、ワシの言うことが聞けぬなら切腹じゃ!」の一方的な関係と思われがちですが、決してそんなことはありません。むしろ、有能な戦国大名ほど評定(重役会議)を重視していたことがわかっています。
その代表は、北条家の小田原評定です。今でこそ「ダラダラと話し合って、いつまでも結論が出ない会議」の比喩で使われていますが、当時は月に6回開催される会議の場として、領内で起こる様々な揉め事や他国の情勢が持ち込まれる情報交換の場として機能していました。
そもそも、自国で起こる様々な案件について、戦国大名がひとりで「そうしなさい、こうしなさい」と決めることは不可能で、会議の場で部下の意見を参考にしながら方向性を明確にし、決裁していったものと考えられます。
―― たしかに、政治にまつわる全てを決めようとした後醍醐天皇は、徐々に手が回らなくなって世の中に混乱を招いてしまいましたね。
部下の諫言に耳を傾ける
もうひとつ、家臣との付き合い方で大切なことは諫言に耳を傾ける姿勢です。「諫言」とは諫める言葉ですが、要するに耳の痛い(できれば聞きたくない)話です。これを体現した人物(武田信玄)は大きな成功を収めましたが、できなかった人物(武田勝頼)はお家滅亡を招いてしまいました。
―― えっ!戦国時代に家臣が殿様に諫言したのですか。私なら、命惜しさに黙ってしまうところですが。。
【武田信玄 1521年~1573年】
武田家第19代当主。通称、「甲斐の虎」。父親の信虎を駿河国へ追放し、甲信地方をまとめる。上杉謙信や北条氏康など列強と争いつつも、上洛を目指す西上作戦の途上で病死。
【武田勝頼 1546年~1582年】
武田家第20代当主。信玄の死後、正式に当主となる。馬場信房、山県昌景など有能な家臣と折り合いがつかず、長篠・設楽原の戦いで歴戦の勇を大勢失う。1582年、天目山麓田野の戦いで敗死。
武田信玄が家臣の馬場信房の諫言を聞き入れた事例があります。1568年の駿河国侵攻の際、信玄から「財宝が収められている今川館には火をかけるな」と厳命が出されていましたが、先鋒を務めた信房は命令を無視して館ごと財宝を燃やしてしまいました。
後日、信玄から館に火をかけた理由を問われた信房は「もし殿のご命令どおり、今川家の財宝を手に入れてしまえば、財宝が目当てだったと後世の笑い者にされてしまうでしょう」と信玄を諫めました。
この言葉に恥じ入った信玄は、信房への叱責を不問に付したそうです。
―― さすが、人心掌握に優れた信玄の振る舞いですね。一方、息子の武田勝頼は重臣たちの諫言を無視して長篠・設楽原の戦いに挑んで大敗を喫しています。
勝頼は信玄の側室(諏訪御料人)の子ということもあって、重臣たちから軽んじられている雰囲気を感じていたのでしょう。また、偉大な信玄公を父に持つプレッシャーもあり、家臣の声に耳を貸さずに臨んだ長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍に大敗してしまいました。
もし、家臣たちの諫言に耳を傾けていれば、早々と武田家が滅亡することはなかったかもしれません。近年の研究では、信玄の時代よりも領国を広げるなど「勝頼は無能だ」という評判は少しずつ変わってきてはいますが、最後はまずい結果となってしまいました。
―― 偉大な人物を父に持つ悩みの大きさは、昔からまったく変わらないですね。
トップは自らの器量を大きくする
「家臣に有能な人物を集める」「家臣が諫言できる場を与える」「理になかった諫言は聞き入れる」。この3点ができた戦国大名は家を保ち、大きく拡大させました。その一方、「家臣にイエスマンを集める」「家臣に諫言の場を与えない」「諫言に一切耳を貸さない」戦国大名は没落するケースが多いです。この部分は、世の経営者さんが歴史から学ぶポイントではないでしょうか。
―― 私が務める会社の経営者にも、声を大にして伝えたいですね。(笑)
【ライバル】誰と戦い、誰と結ぶか?
- 自ら置かれている状況を冷静に見つめよ!
- ライバルの情報収集には積極的に取り組む!
- トップは情報を正しく判断する力を磨け!
状況判断と情報収集が大切
―― 次に、戦国大名のライバルとの付き合い方について教えてください。
2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場する、織田信秀(織田信長の父)の事例を紹介します。織田家が本拠を構える尾張国(現在の愛知県西部)は、北を斎藤道三、東を今川義元の列強に挟まれていました。
当時、信秀は隣国の三河国(現在の愛知県東部)を狙っていましたが、斎藤家と今川家を同時に敵に回して戦うだけの戦力がありませんでした。そこで、信秀が取り組んだのが情報収集でした。他国に忍びを送り込んで動向を探った結果、「斎藤と結んで、今川と戦うのが上策」と判断した経緯があります。
トップは情報を正しく判断する力が必須
―― では、次々と主君を替えた真田家のケースはいかがでしょうか。武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣を相手にめまぐるしく立ち回っています。
信濃国の小大名であった真田家の場合、「誰と戦い、誰と結ぶか」は家の存続に直結する死活問題でした。周囲は全国でも屈指の大大名ばかり、絶対に選択を間違えてはなりません。真田家が動乱の戦国時代を生き延びることができたのは、情報収集に優れていたことはもちろんですが、当主の真田昌幸の判断力が抜きん出ていたことがあります。
ここで注意が必要なのが、簡単に主君を替えることができたのは、当時が「戦国の世」であったからです。戦国時代は家の存続が第一でしたから、誰と戦って誰と結んでも家が残れば正解だったわけです。しかし、現代社会は「武士は二君にまみえず」の儒教的思想がベースにありますから、真田昌幸と同じ行動を取るのは難しいでしょう。
―― 真田家がうまく立ち回れたのは、正しい情報を正しく判断できたからですね。
そうですね、せっかく掴んだ情報がガセネタでは元も子もありません。実際、ガセネタを信じて敗れた戦国大名は枚挙に暇がありません。現代の経営者さんにとっても「持っている情報が、正しいかガセネタかを判断する力」は欠かせないものでありますし、歴史に学ぶものが多いと思います。
昌幸
【事業承継】能力で選ぶ?順番で選ぶ?
- 動乱期には、とにかく有能な人物を!
- 安定期には、長幼の序を!
- 後継者の教育には、厳しさが必須!
―― 最後に、戦国大名の事業承継についてお話をお願いします。事業承継は、現代の経営者さんにとっても大きな悩みのタネではありますが、「うまく引き継ぎができた戦国大名」と「お父さんの代で終わってしまった戦国大名」では、どのようなケースが挙げられますか?
[成功例]北条氏綱-氏康
最近は「事業承継を歴史から学びたい」という依頼で講演する機会が多くなってきました。そこでお話しする成功例としては、北条氏綱と氏康の事例があります。
【北条氏綱 1487年~1541年】
北条家第2代当主。戦国大名の草分け的存在であった父・早雲の跡を継いで南関東に版図を拡大。鎌倉鶴岡八幡の造営によって、東国武士政権の棟梁として存在感を放った。
【北条氏康 1515年~1571年】
北条家第3代当主。通称、「相模の獅子」。文武に優れ、関東一円に勢力を拡大する一方、領民政策にも積極的に取り組み、仁君としても名を上げる。
北条家は5代百年にわたって関東を治めた戦国大名ですが、2代目の北条氏綱が3代目の氏康に残した遺言状がポイントです。「遺言状」と聞くと、財産相続が思い浮かびますが、氏綱が氏康に残した遺言状には「氏綱がやってきた成功事例や失敗事例」が豊富に書かれています。
氏綱
【北条氏綱公御書置】
- 義理を大切にすること
- いかなる身分の人も丁重に扱うこと
- 己の分限を弁えること
- 節制に努めること
- 勝って兜の緒を締めよ
ここには、氏綱の帝王学(統治の心構えやあり方)が詰まっています。元々は相模国(現在の神奈川県中西部)の小大名に過ぎなかった北条家が関東一円に覇を唱えるまでに至ったのは、2代目の氏綱が残した遺言状を3代目の氏康がしっかりと守って、家を大きくしたことがポイントだと思いますね。
―― なるほど、先達のエッセンスが後代にきちんと受け継がれていれば、基盤が簡単に揺らぐことはなさそうですね。
[成功例]徳川家康-秀忠
もうひとつ挙げるとすれば、徳川家康と秀忠の親子ですね。NHKの『英雄たちの選択「家康の終活~徳川の天下を決めた最後の決断~」』でもお話ししましたが、徳川家を後世にいかに残していくかについては、家康もなかなか頭を悩ませていました。
【徳川家康 1543年~1616年】
松平家第9代当主にして、徳川家初代当主。織田信長、豊臣秀吉の天下統一事業を引き継ぎ、1603年に江戸幕府を開府。15代二百六十年にわたる徳川政権の礎を築く。
【徳川秀忠 1579年~1632年】
徳川家第2代当主。結城秀康や松平忠輝との後継者争いに打ち勝ち、第2代将軍に就任。武人としての評価は低いものの、家康の教えをよく守り、徳川幕府の盤石化に大きく貢献。
家康の目利きが優れているところは、「時代の要請」を見極めたところにあります。戦国時代の全盛期であれば、武勇に優れた次男の秀康や六男の忠輝を後継者に選んだと思いますが、大坂の陣によって戦国の世が終わってしまうと、時代は安定期に入ります。そこで求められるトップの資質は「攻よりも守」「激動よりも安定」です。
―― 能力の高さよりも、穏やかな性格や人付き合いの良さを重視したということでしょうか?
そうですね。実際、家康は長男の信康を自害させたり、死ぬ間際にあっても忠輝との面会を謝絶したりと血も涙もない行動を取っていますが、それはひとえに秀忠を中心とした幕府体制を整えるためであり、私人の情に囚われてのものではありません。家康にとっては、徳川家を後世に残すことが最優先だったのです。動乱期には有能な人物、安定期には長幼の序で順番を守ることは非常に大切ですね。
―― 現代人の私たちからすると、家康は慈悲無き人物として映りますが、「事業承継を成功させるには厳しさも必要」ということなんですね。。
[失敗例]今川義元-氏真
―― では、結果的に事業承継に失敗した戦国大名を教えてください。
織田家や豊臣家、武田家など失敗した事例は豊富にありますが(笑)、ここでは今川義元と氏真の事例を紹介します。私は静岡県に住んで今川家の研究をしていますが、どうやら義元が子育てに失敗した様子が見て取れます。
【今川義元 1519年~1560年】
今川家第11代当主。通称、「海道一の弓取り」。寄親・寄子制度の創設など軍事や外交に優れ、今川家の最盛期を迎えるも、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死。
【今川氏真 1538年~1615年】
今川家第12代当主。父・義元が桶狭間で討たれた後、離反する家臣が続出。松平家と武田家の侵攻を防ぎきれず、お家滅亡。徳川家康の庇護を受け、77歳の長寿で没する。
―― 今川義元が子育てに失敗した要因は何だったのでしょうか。
今川家の全盛時代、京都から義元を頼って公家たちが駿河国にやって来るのですが、どうやら氏真を公家と交わらせすぎた様子が伺えます。公家との交流で和歌や蹴鞠の才能を開花させた氏真は、お家滅亡後も家康の元で生き永らえることができたのですが、戦国大名としては失格です。本来学ぶべき「武の道」を教えることを怠り、氏真を「文の道」に走らせてしまったことが、事業承継に失敗した理由であると考えています。
―― 義元は親バカだった、という理解で良いでしょうか?(笑)
そうですね、ご紹介した北条氏綱や徳川家康が持ち合わせていた「棟梁としての厳しさ」や「家を存続させる責任感」が少し欠けていた、と言わざるを得ません。義元は氏親(父)と寿桂尼(母)という有能な両親に育てられたにも関わらず、自身の子育てにはちょっと失敗した感じですかね。(笑)
―― しかし、今川家には太原雪斎という有能な軍略家がいた記憶があります。彼は若き日の家康(幼名、竹千代)を教育した人物としても知られていますが、結果的に家康は大業を成し、氏真は今川家を滅亡させてしまいました。
太原雪斎の素晴らしい教えは、子の氏真ではなく人質の家康に受け継がれました。教育を受ける側の資質もあると思いますが、雪斎は家康に帝王学を託したかったのでしょう。やはり、親として教育させるべきところは甘えをなくして教育するというスタンスはいつの世も欠かせません。
義元
小和田先生の経営理念とは?
―― 小和田先生もご自身で事務所の経営をされていらっしゃいますが、どのような経営理念をお持ちでしょうか。
私は「歴史好き人口を増やしたい」という思いを持って、事務所の経営に取り組んでいます。歴史のすごさや面白さを多くの人に伝えるためにテレビや雑誌に出ていますし、それを仕事にしたいと考えて事務所を立ち上げました。
ですので、同業の研究者はライバルではなく「歴史好き人口を増やすための仲間」と捉えて、よく情報交換させて頂いていますよ。
―― 私はついつい同業者にライバル心を燃やしてしまうのですが、小和田先生のお言葉で心構えを改めたいと思います。(汗)
【まとめ】現代の経営者にメッセージを
「失敗や挫折を糧に、前を向け」
―― 最後になりましたが、小和田先生から現代の経営者にメッセージをお願いします。
私からお伝えできることがあるとすれば、失敗や挫折をバネに前を向いて行動してもらいたいですね。ここでは織田信長を例に出しますが、1570年に朝倉家を攻めた金ヶ崎の退き口では、自軍の後方を浅井家に攻められて絶体絶命のピンチに陥りました。当時の一般的な武将のイメージでは「負け戦では潔く自害するのが武士の本望」でしたが、信長は躊躇なく撤退して出直すことを決断します。
以前に執筆した『家訓で読む戦国』の帯にも載せていますが、名将の朝倉宗滴が「功者の大将と申すは、一度大事の遅れに合ひたるを申すべく候」と述べているとおり、「失敗を経験してこそ名将になれる」。ちょっとした失敗にもめげることなく、頑張ってもらえたら良いなと思います。
―― 私たちへのメッセージとしても、受け止めさせていただきます!本日はどうもありがとうございました。
【取材後記】とにかく緊張しました・・・
『師範に問う~戦国ビジネス研究所~』の第1回目のゲストにお迎えした小和田先生のインタビューをお届けしました。まさか、インタビューを受けていただけるとは思ってもみませんでしたが、小和田先生は終始にこやかな表情で質問にお答えくださり、和やかな雰囲気でお話を伺うことができました。
インタビュー終了後の撮影の際、調子に乗って「エイエイオー」と掛け声をかけてみたところ、隣で小和田先生も勢いよく勝鬨をあげてくださっており、驚いてしまいました。
先生のノリの良さにうろたえる筆者
ぜひ今後も機会がございましたら、戦国ファンを創出する取り組みをご一緒できればと考えております。インタビュー終了後、小和田先生が「おいしいよ」と教えてくださった静岡県の銘酒『正雪』をちびちび飲みながら、駿河国を後にした筆者でした。